つつじの季節と幼少の思い出。

こんにちは。広です。

お店の前の街路樹を新緑とつつじのお花が彩っています😊

毎年この季節になると、

自分に五感が備わっていて、

色や形だけではなく、明度や彩度、そしてエネルギーを感じることができる感覚があるなんて、なんて素晴らしいんだろう!と感動します😊

毎年街路のつつじのお花に反応します(笑)

あー今年も生きてこの世界のつつじを見れたんだ。

そして、いつか人生の終わりにこの風景を思い出すんだろうな・・・

・・・と先日友人にぽつんと言ったら笑われました😆

それはやはり小さい頃から毎年眺めて来た風景だからなのでしょうか。

それから、小学校時代の昔話になり、

子育てママ話になり、実母の話になり・・・

母とはやはり何はさておき前提条件であり、

環境や情報の土台を作り、

取り入れるかどうかの安全弁でもあり、

そこには理屈ではなく感覚や感情があるのみなんだなと思いました。

例えば、幼い頃、母親の何気ない(母本人は全く気にも留めずの)言動にひどく落胆した事や失望した事はありませんか?

大人になると、より一層“あれはあり得ないわ“と呆れること、いっぱい引き出しにしまっています。

けど、それって本当に意図していたことと、それに当てがった言葉が一致しているのかな?と考えてみたことはありませんか?

そう考えてみると、

例えば私の母はあまりに言葉を知らなかったのかもしれないです。

私のように、違和感からあれこれ言葉の意味を調べたり反芻したりする人でもなければ、勉強もしなかったし読書も大嫌いという人。

現代人ぽさのない昔ながらの感覚の人。

その人の中に沢山の言語知識があったり、細やかな機微に応じて言葉選びができる人でなければ、

なかなかその人の思いはぴったりそのまま他人に伝わらないでしょう。

そう、

そういうことなのかもしれないなと思うようになりました。

はじめに言葉ありき

本当にその通りですね。

その人の持つ言葉でその人の世界は作られ、制限されもしているのです。

だから思うのですが、

より多くの言葉や知識や経験を持っていれば持っているほど、

子供や他人に与えれる愛が、そのままに近い形で手渡せるのではないのでしょうか。

たくさんの愛を手渡したい、注ぎたいならば、人生を学び続ける事なのでしょうね。

そんな事を気付かせてくれたつつじと友人に感謝です😊

本日もよき1日をお過ごしください!

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